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MY STORY

こんにちは。さどです。


この度は、HITOMISADO@CHADWORKS

HPに遊びに来てくださり有難うございます。

 


まず初めに、私の人生を通して体現し続けたいことに

『自分の人生と生きる姿そのものを人に生かしたい』

『その人がその人らしく、魂から輝いて生きてほしい』

という想いがあります。

 


仕事もわからない小学校時代、

「誰かに代わられるような仕事ではなく、

自分の名前と体があって初めてできる仕事がしたい」

と幼いながらになんとなく心に決めたのを覚えています。

 


活発な小学校時代と一変、

眼鏡で無口になった中学生時代はクラスに友達がおらず、

トイレと自分の机が居場所、本が友達でした(笑)

人にどう見られているかがとにかく怖かった3年間です。

 


その中でも数少ない吹奏楽部の友達や、

文章力をかってくれた国語の先生に支えられ

言葉や音楽といった

自分を『表現』できる世界で生きていきたいと

なんとなく志し始めた頃でしょうか。

 


中学で味わった「インキャラ佐渡さん」という

悔しさや寂しさから脱するべく、

外見から好きな自分にコーディネート、

「明るい子ならこんな時どうするかな?」と演じて

自分をつくりました。

 


そこで変わり始めた人との関係性と自分自身の在り方。

高校入学時と高校卒業時の顔はイキイキさが全然違うほど

当に充実した高校生活でした。

 


「やりたいと思ったことはやりきりたい」

「やらない後悔よりやって後悔」と部活も3つ掛け持ち、

体育祭では応援団リーダーにも挑戦。

 


クラスでも部活でも先生とでも、自分が変わらず「自分」

という存在で在り続けられるのは幸せなことだと感じました。

 


大学進学時に進路で迷いに迷った私は

「本当に自分が進みたい道」が自分の心に正直になれず、

周囲の意見に従って希望しない大学へ進学。

 

 

その選択を「自分で選んだ」と受け入れられずに親のせいにし、


体育会の部活で活動しながらも「自分の居場所」と「自分の行きたい場所」との間で悩み続け葛藤し続けもがき続け、


1年が終わろうとする頃には高額のネット占いに手を出したりろくに食べるものも食べれず授業も手につかない。そんな状況でした。

 

 

自分の頭と心と体が全く追いつかないまま、私は混乱hしながら、希望大学の再受験をすることに。


頭の中にいこだまするのは部活の同期や先輩の声。


「さどはいつまでも中途半端なままだ」

 

 

入試を棄権しようとする半狂乱な私に父は「やったならやり切ってしまいなさい」と電話で告げ、受けきることに。

 

 

結果は合格でしたがわたしはまた「わからない」と


頭を抱える日々を悶々と布団の上で過ごし、春を迎えてしまいます。


先に入っていた大学を辞める勇気も、次の大学に入学する決意もなく、


2つの私立大学を同時に在籍するという異常の事態。

 

 

「決断」ができなかったわたしに待っていたのは


部活からの除名処分。規則の厳しい部活においてはタブー。

 

 

「何それ、おかしいよ」


わたしの居場所はもはやどこにも感じられなかった


「なんで私は自分の人生ひとつ、自分で決めれんのん、私のバカ、私はダメだ 未来に希望なんかない 死にたい」


そして父にかけた電話「生まれてきてごめん。私なんかが生まれてこなかったら 生まれてきたのが私じゃなかったら お母さんが死ぬこともなかった。お父ちゃんにこんなお金や心や体の負担かけることもなかった。私なんか生まれてこんかったら良かったのに 死にたい」


その電話に父はしばらく黙って、一言だけ「…で?」と聞き返してきた

 

 

その間とその一言に


「父」であり「親」という存在の大きさと


父の味わったであろう悲しみや傷ついた心を感じ

 

 

「ああ、私は言ったらあかんこと言ってんな」ということと


「お母さんが本間に命かけて死んでまで産んでくれた命やのに こんなとこで死んだらあかん。私が次に命つないでお母さんになるまでは、死んだらあかん。」


とボロボロの精神状態で、ボロボロ泣き崩れながら思ったものです

 

 

この話は今こうして書いていても涙が出るぐらい


私の中で『母になる』という一生変わらない夢を


私にしっかりと刻み付けた出来事でした。

 

 

部活を除名になりどうしたいか、どうしていいかもわからず彷徨う私を助けてくれたのは沢山の人との出逢い、


その一言に尽きます。

 

 

「後ろばっか見てても仕方ないんだからさ、違うこととかやってみたら」そんな先輩の一言を受けて


新しい大学の体育会系部活をすべて見学し元気をもらい


部活にいたころはできなかった大学生らしいことをしたいと


ヒッチハイク、海外ボランティア、学生団体にチャレンジ、

 

 

少しでも生きるヒントをつかみたい一心で


セミナーや講演会、イベントにも行きまくり、自己啓発の本も読み漁りました。

 

 

「会いたい!」と直感で思った人には


わらにもすがる想いで会いにゆき、


ヒッチハイクで乗せてくださった方にも片っ端から相談。悩み続けた5年間でその数のべ何百人にはなるでしょう。


友達には相談しすぎて「また悩んでんのかよ」「またその話?」と嫌がられることもありました。そのたびにやっぱり迷ってる自分が嫌になった 相談することが怖かった

 

 

そんな自分を変える契機は学生団体との出逢い


「二重学籍?おもしろいじゃんすごくね?話ききたい!」「ちゃどの姿から勇気もらった!ありがとう!」


そう言ってくれた友達、自分も「誰かのナニカ」になれるんだと感じられた瞬間でした。

 

 

それから「路上詩人」という人たちとの偶然の出会い、


もらう言葉たちのどれも私にはぴったりで


とにかく迷いまくっていた私には衝撃でした

 

 

そんな出逢いもきっかけに、さどは筆を持つことになります。いろいろ自分の内にあるものを外に出したかったのか、大きな壁に絵の具をまき散らしたいという欲求。


友達に話すと、「じゃあなんか書いてよ」と言ってくれたのが始まり。

 

 

笑顔が印象的なその彼に「笑」という一文字と、彼から感じることを短い文章とをそえて贈ったら


思いのほか、その印象的な素敵な笑顔で喜んでくれた


それがキッカケとなり、路上の父であり心の師である「てんつくマン」に背中を押され、


私も、私に勇気や前進するチカラをくれた路上詩人たちのように路上で言葉を届けてみたいと路上に座りました。


20歳のとき、夏の梅田でした。

 

 

はじめての路上は、路上詩人の先輩である女性について出店。ブルーシートを広げるまで、どれだけ時間がかかったか。


えいと座ってみて初めてきてくれたお客さん。


たいそう喜んでくれて握らせてくれたお札の重みは、それまでで一番重く、新鮮で美しいものに感じました。

 

 

そんな出逢いのひとつひとつの積み重ね。


この世界には、今までわたしが知らなかっただけで、常識の枠を飛び越えて生きている人がたくさんいる。


イキイキと生き切っている人たちがたくさんいる。


人の数だけ人生がある。私はいい人としか出会ったことがないと思うぐらい、人に恵まれてきたと思います。


それは、母が亡くなった体と代わりにわたしに残してくれたプレゼントだと信じています。

 

 

体や声はなくとも、常にそばでわたしを守り続けてくれている存在であり、「恵子」という母の名は、「子」である私に、「恵」まれた人の子との出逢いを授けてくれているのだとある時気づきました。

 

 

素敵な人たちとの本当にたくさんの出逢いを繰り返し、迷いながらも人生に肯定的に生きることができました。


それを父に伝えたくて、関西で出会ったアーティストの先輩方を地元に招いてイベントをしたとき、父の嬉しそうな顔、ほっとした顔。「いい人らじゃね」と父に今のわたしとわたしが接していただいている人たちを見せることができた。


それから父との関係性が進展していく大きな一歩になりました

 

 

とにかく旅がしたかった21歳。春休みに旅に出たのを契機に家とお金を手放して「ホームレス女子大生」に。


電車に乗ったら全財産がなくなるようなとき、路上をしながらお金を頂き、ネットカフェや友達の家をスーツケースをひいて点々とする日々。公園や浜辺で朝を迎えたこともある


自己肯定感も体力も疲労していく半年間でしたが、人からの愛をもらわないと生きていけねえ、ということを人一倍味わった時期だと思います。一晩の宿、ひとつのおにぎりが死ぬほどありがたい。

 

 

一人でそうやって旅しながら迷い続けた間、強く生きるのだと思いながら心のどこかではずっと支えがほしかった 


すべてを手放して何も考えずに寄りかかれる存在がほしかった 「彼氏」でなくお互いを支え合い高め合えるパートナー」と出逢いたいと思い続けた


「彼氏はできない」といったり言われたりしながら


やっとであったその人、22歳のロストバージンは私に女としての喜びを教えてくれた気がします

 

 

幼稚園時代からおばあちゃんの選ぶフリフリのスカートやかわいらしい女の子服、三つ編みを否定してきた幼少期、


ズボンや寒色系ばかり好んで来ていた小・中学校時代。


高校からおしゃれに目覚め、


どうせ女の子に生まれたなら女の子を楽しまなきゃ。


今の服選びの基準は流行りものに左右されず「きゅんとするかしないか。」「オンリーワンかどうか。」


「服が私にきてくれといっている」


インキャだった時代、外側から作った時代、自己肯定感も何もなかった空っぽ時代を経たからこそ、


女性としての陰と陽


「原始、女性は太陽であった(平塚らいてふ)」の言葉は教科書で見てからなぜかずっと心の片隅にあった


太陽でありたい、太陽であれ、そう思います

 

 

路上でもたくさんの女性にであう


くたびれた表情、女性としてもっと輝ける、輝いてほしいと思う瞬間

 

 

おばあちゃんは70過ぎてもバイクにのってよく笑い化粧もする、情緒豊か、背中もピンとしている、


わたしはこんなおばあちゃんになりたい 憧れの存在であった

 

幼少期に山で山の姫になりきって遊んだ経験

「もののけ姫」のサンやポカホンタス、ムーラン、

強くて道切り開きたくましく美しく、しかし女性として美しくしなやかで華やかで、芯のあるやさしさもあるそんな女性像は今の私の中に確かに生きています

こんな女性でありたい

 

すべてのお母さんに思うのです、母であるだけで、それだけでもう素晴らしいことだと

子供には母親が必要と感じたわたしの経験

大切にしてほしい親子の絆

両親そろっている家庭がうらやましく見えた

 

しかし男手ながらに母親の役割も担おうとわたしを育ててくれた父

どんなに喧嘩しても怒られても必ず根底ではわたしのことを認めてくれている

最高の親だと思っています 私もそうでありたい

 

母が最期にわたしを抱き上げていった「かわいい」という言葉

 

母の肉声をわたしは知らない 母の存在を写真でしか知らないけれど

わたしの中で生き続けている わたしは直接もらなかったけれど確かにこの体に生きている母のメッセージを伝えたい 残したい

 

女性に限らず すべての人へ

自分を生きてほし

 

愛」とか絆とか家族って言葉は臭くて嫌いだった

喧嘩したときに父や祖母のいう「血がつながっとるのにから」という言い訳みたいな「だから何?」が嫌いだった

うとましかった 

父も相当つらい想いをしたのに嫁さんもらわず育ててくれた不器用な愛に 反抗して口も利かなかった高校時代

それでも唯一の肉親で大切な存在だってことは分かっている

小さい頃にはいつでもどこでも父のあとをついて一緒にまわった 父が大好きだった

 

お母さんのいないことをかわいそうと自分に思ったことはなかったけど 恋愛やからだのこと 家事のこと 相談したくてもできないことや不満に 寂しさ募らせたことはある

 

だからこそお母さんと子供に伝えたい 命がつながるって素晴らしいkiseki  そしてともに歩めることの奇跡

子供には無限の可能性が開かれてる

どうにだって進める

自分で道は決めていける、切り開いてゆける、

可能性を未来扉を自らの手で閉じないでほしい

自分を生き切って、人生を生き切ってほしい

女性はいくつになってほおばあちゃんになっても女の子であり 子供はちいさな大人である 大人も昔子どもだった同じ人間である すべての魂を輝かせて一生きりの自分を正々堂々と進んでほしい

 

悩んでもいい 迷ってもいい どんな自分でもそれが自分 それがあなた その時ヒカリは見えなくても必ずヒカリはすべての人の上にさしている 

 

それを見るか見ないかはその人の意志

空には夜でも月が 月が沈めば星が輝いている

曇りでも熱い夕陽が雲の向こうからさしている@波照間

人でも同じ どんな状態でも自分で気づいてなくても 必ずヒカリはどんなかたちでももっている

 

5年間同じテーマで迷い続けた

多額の学費と経験のためのお金を費やした

親への申し訳なさ、大学は卒業しなければという常識から自分を放てなかった

99パーセントの人は反対した

ごく数名の 信じられる人が 背中を押してくれた

 

わtしは限界だったのだと思う

洗面台に「学校行きたくない」と頭を打ち付け、淀川を逃げまくった 学校に行けば自分をまだいけるとごまかした

 

そんな日々を繰り返し

「本当に好き」を選ばなかった自分への後悔、教育実習で出会ったキラキラした後輩たちにわたしは何と伝える?

大切な人が同じようにもがいていたら、どうしてほしい?なんと声をかけたい?私はそれでも頑張って卒業しろといいたくなかった、自分の今と、大切にしたいものを大切にして大丈夫

 

なんくるないさ 人生は回り道しても大丈夫

好なことしてやってみて やりたいことをやれ

みらいが怖くても なんとかなる なるようになる

 

そんな言葉を自分の言葉でいえる大人になりたくて

同じように迷う次の世代に伝えたくて

誰かのナニカになりたくてそのままで大、すべてはうまくいっている、

ちゃんと見守ってくれている人はいる、独りではない、

自分を信じてあげて、難しいけれど 慣れるのに時間はかけるけれど気づいたら そのどん底も含めて無駄なことなんて一つも人生にははい、気づいたらなりたい自分がそこにいる、

 

愛だの絆だの臭いものに助けられて今ここにたっている生かされている私の命は、だからこそやるべきことがこれからまだまだたくさんある、愛や絆を泥だらけで味わってこそある色鮮やかな今

どう進むかはわからない、これからも迷うだろう悩むだろう、けど 長い雲をぬけて見えるヒカリはとてつもなく爽やかでまぶしい。ガマから見上げた出口のヒカリみたい

泥臭くても不器用でも、わたしなりに色鮮やかな大きな花火を咲かせて生きたい

 

それからも旅や出逢いを続け、社会問題にもふれ平和をテーマに沖縄や韓国を旅したこともあります。韓国の地で出会ったおじいさんの「わたしたちは、ひとちゅ!地球家族!」というつたない日本語が胸にささり、そこから平和や世界に対する意識が変わります。


広島生まれである私は、平和のことや原爆のこと、ほとんど人に語れるほど知らない。子供のころおばあちゃんからたくさん話を聞いてきたのに、わたしは恥ずかしいと思ったんですね。

 

 

それから沖縄のガマを見学したり沖縄戦の話をおばあに聞かせてもらったり、広島に帰り、22歳にして初めて平和祈念式典に行ったり 原爆の残り火を70年間に渡り守り続けてきた人の息子さんに会いに行